明智光秀と岩崎家

今年の大河ドラマ「麒麟が来る」は明智光秀が主人公だそうだ。

岩崎の先祖の記録は父の世代までは寛文年間の黒崎城が壊され、黒崎宿が生まれたあとにたてられた菩提寺に残された岩崎茂蔵という過去帳の記録がいちばん古いものだった。

しかし偶然から我が家の先祖の情報で一番古い記録は、明治の家譜研究家の中田憲信さんの「岩崎家家譜」という書籍の中にあることにたどり着いた。「岩崎家家譜」は国会図書館の 中田憲信編著の『各家系譜』第三冊に所収されているそうだ。
そのなかでは、長曽我部元親に仕えた弥兵衛尉信名の二男(新兵衛尉信懐の兄)に孫兵衛尉信将がおり、その子の武田孫太郎信欽の弟、信国(孫二郎、岩崎孫左衛門尉)に「仕筑前黒田家松平筑前守忠之朝臣」とある。この信国こそが記録に残された我が家の一番古い先祖として見つかった。

さらに一昨年孫の七五三のお参りで岡田神社という黒崎の古い神社にお参りに行ったおり、記帳していると、宮司さんが、「藤田の岩崎さんですか。昨日伊勢神宮から慶長15年(1610)のいまでいうお伊勢参りのツアーコンダクターと言える御師(うし)の記録が届いたそうだ。コピーしていただいた。
その中で、藤田村の寄進者の名簿には、我が家の先祖の名前が列挙されていた。その一覧の中に幼名も見られたが、「孫三郎、孫七郎」とあった。
幼名は代々引き継がれる。信国の幼名は岩崎家家譜のなかでは「孫二郎」とあった。
しかし、慶長15年にはまだ忠之は幼く、最初に仕えたのは黒田長政だと思われる。
これはほぼ間違いないだろうとおもった。

郷土史の黒崎城にかんする記録をみると、藤田の我が家のあたりに玄海衆といわれる武士団がいて、今の浄蓮寺のあるところに玄海屋敷と言われる住居を構えたとある。城戸門が春日神社の丑寅(東北)に設置され、城の警備とお堀の監視にあたっていたそうだ。
1610年といえば一国一城令で壊された黒崎城も立ったばかりで、当初は岩崎信国が黒田忠之に初めて仕えたと思っていたが、その父親の武田孫太郎信欽が黒田長政とともに黒崎に入り城の警備に当たったとも想像できる。

その徳島にいた岩崎氏は、家譜によれば岩崎を名乗ることなく、祖谷のかずら橋がある菅生(すげおい)という山奥にすんで菅生氏をなのっていたようだ。その付近は剣山とともにキリシタンの遺跡がたくさん残るところでもある。
そのことからキリシタン大名であった黒田長政に仕えたことも偶然とは思えない。我が家の先祖も切支丹であったのだろうか。黒崎宿の発掘調査でも、複数のメダイが発見された。もともと城山の周りに住んでいた人たちは弾圧を逃れてきたキリシタンの人たちだったのかもしれない。

なぜ岩崎氏を名乗れず、そのような山奥に住んでいて、しかも長曾我部のもとにいたのかを考えると、いろと想像できる。
武田氏が滅亡したのは1582年。明智光秀の本能寺の変があったのも同じ年。武田の主流はみな自刃したが、逃げて行ったものもあるようだ。
祖谷の岩崎氏も本能寺の変に参加し、織田と対立していた長曾我部のもとに逃れたと考えると、想像の世界はますます広がる。名前を隠して山奥に蟄居したこともうなずける。

こんな想像を始めたのも何年か前にNHKの本能寺の変の特集の映像の中に我が家の松川菱の紋章を見つけ、それから、「長曾我部 岩崎」で検索をかけて家譜の記述を見つけた偶然からだったことも不思議だ。本能寺の変の動機にはいろんな説があるが、どのような説にしても、我が家の先祖がかかわったのではないかと思ってしまう。

歴史のロマンと我が家のファミリーストーリーズにいろいろと思いを巡らすのも楽しいものだ。

岡田神社からいただいた慶長15年の伊勢神宮の名簿

朝露 

韓国の有名なフォークソングです

韓国の歴史について私たち日本人はほとんど知りません。特に戦後については尚更です。現在の民主的な韓国は多くの犠牲を伴う民衆の闘いで勝ち取られました。
平尾台に来られたガイドの方と話したとき、IMFの時代に友人がたくさん自殺してしまったそうです。そんな苦しみの中からこの歌声が聞こえてきます。

今から10年以上前にストーンウォークコリアに参加させていただいたときに、韓国の若い人に教えていただき、帰国してすぐ曲を自分で歌ってみました。


今日見てみると18000回再生されているのをみて驚きました。

韓国の民主化運動の中でたびたびうたわれたそうです。命がけで勝ち取った民主的な韓国の戦いに敬意を表します

平尾台の森

草原の平尾台は有名ですが、平尾台の森もとても魅力的です。
太古の昔はこの平尾台は森に包まれていたそうです。

平尾台 晩秋の山神社の森によせて

藁ぶき屋根であったり、農耕用の牛馬の糞と混ぜてたい肥を作るためであったり、害虫駆除であったり、放牧地が必要になったりなどで、野焼きが始まりいわゆる萱場が形成されました。
その結果現在の平尾台の草原が作られたのです。

最新の考古学の研究成果によれば、平尾台の洞窟の中の石筍を輪切りにして調べることで、台上の植物の様子を知ることができるそうです。太陽や乾燥に強い草原性の植物と一般的な森の植物では光合成の仕組みが異なっていて、それぞれC4光合成、C3光合成と呼ばれています。その光合成の違いから、炭素中の放射性炭素の割合が違ってきて、輪切りにされた石筍の中の炭素の成分分析で台上が森であったのか草原であったのかを知ることができるそうです。

石筍は木の年輪と同じように台上の植物がつくるフルボ酸という物質の割合が異なります。夏は植物が成長してフルボ酸がたくさん生成され、冬は植物は枯れてそれが少なくなり、濃度の年輪を作ります。薄く輪切りにした石筍に紫外線を当てるとフルボ酸が発光して縞模様が出るそうです。その特定の縞のなかにある炭素の分析をすれば、その時代の台上の植物が想像できるというわけです。
平尾台の調査では7世紀近くに一度草原になり、その後森に遷移し、江戸時代初期に再び草原化したという分析ができました。
比較的古い資料がたくさんある秋吉台で同じ調査をしたところ、古い記録と分析の結果が照合してこの手法の信頼性が証明されています。秋吉台でも江戸初期に野焼きが始まっています。
分析した研究者は、7世紀の草原化は奈良の大仏鋳造のための銅の精錬の結果ではないかと想像していました。

写真の森は、野焼きが始まったのちも、森の南にある川帰り水という水源地を守るために、あえて野焼きを行わなかったようです。南大東島のジャングルの下の洞窟とサトウキビ畑の下の洞窟の水の動向を調べたら、ジャングルの水の涵養力が分かったそうです。草原の下の洞窟では雨の後ではすぐに水量が変わるそうです。その一方ジャングルの下の洞窟では水量が雨の影響を受けないそうです。ジャングルの木が水を涵養し安定して洞窟に供給しているんですね。

このように平尾台の歴史から知ることのできることは、人為的な力がはたらかなければ平尾台は森に遷移してしまうということです。20くらい前に野焼きで消防士の方が犠牲になって、しばらく野焼きが中止になました。その結果台上の森林遷移がすこしすすみました。わたしが持っている昔の平尾台の写真と比べてもずいぶんと木や竹林が増えています。広谷湿原などは、私が半世紀近く前に訪れた時には、ほとんどが草の丈は膝まで位の草原で、野焼きを行わない現在は、背丈ほどの草が生い茂り、森林遷移が進んでいます。
自然を守るということは、現在の状態を維持することなので、広谷の野焼きは湿原の保持のためにも必要だと多くの人が考えていますが、なかなか実現しません。

県や関係自治体は自然保護と言って人が立ち入ることだけを禁止して、かつてのように野焼きや放牧や水田耕作がない今、広谷湿原が乾燥してなくなっていくのは自然と思います。

もともと森だったところは森に、草原だったところは草原に帰るというのが自然の遷移の法則です。
広谷湿原の保護とは、半自然、ビオトープとしての湿原を日常的に手入れすることだと私は思っています。
早くしないと木やヤマドリゼンマイなどが繁殖し乾燥化して次第に湿原が乾燥して森になってしまうのは時間の問題です。

とは言っても、草原や湿原だけではなく、平尾台の森もぜひ末永く愛してほしいですね。
上空から見ると森の中にもドリーネがたくさんあることが開かります。
七ツ森や塔が峰や大穴の森も、とても魅力的です。
平尾台の森にもぜいってみてください。