私のパソコン遍歴

 

 

1976年 パソコン黎明期に

 私のパソコン遍歴といえば、日本でパソコンが生まれたときと同時かもしれない。当時鉄工所を営んでいた兄が、趣味で日本で始めてのパソコン組み立てキット KT-80 を購入したときである。KT-80は今のようにキーボードからディスプレーと最初から何でもついているわけではなく、いまでいうマザーボード丸出しの基盤そのもののパソコンだった。キーは16進キーがついていて、そこから順次メモリーに16進で直接命令を打ち込むのだ。バグを取りながら入力して、テニスゲームが走ると、やったという気持ちになってしまうのである。
 その後、キーボードや、データテープ装置(当時はフロッピーはまだない) などを購入していくのであるが、これらがまた高価で、安月給の当時の私には到底手の届かないものだった。使わせてもらうというより、さわらせてもらうというほうが正確だ。

 

1978年 でたぞBasicマシン

 その後、アップルII も兄が購入して、私も遊ばせてもらった。当時の金額でかなりの高額な代物だった。数年後、パソコン専門の古物商に売ったときも30万円位だったのを記憶している。こちらはキーボードが標準でついていて、しかも当時の先進の5
 たしかゲーム「ロードランナー」で遊んだ記憶がある。

1980年 日本製のBasicパソコン時代

 1980年代の初頭、日本のメーカーも本格的なBasic言語搭載のパソコンを発売した。そのなかの、もっとも洗練された、ものの一つがFM−7であった。しかし、これもしがない安月給の私にはまだまだ買えない代物でした。ということで相変わらず兄のものを時々つかわせていただいた。 CPUがZ80ではなく、モトローラのチップを使ったものだったように記憶している。そのため、さまざまなFM-7ならではの高速性が兄の自慢の種でもあった。

1983年 MS-DOS 16ビットパソコンの時代へ

 この年こそ私のパソコンライフが本当に始まった年だ。アップル社が次々とマウスを使った魅力的なLISAなどのパソコンを発売する中で、NECが現在にいたるまでパソコンの世界をひっぱて来たMS-DOS搭載のマウスオペレーションを標準で備えたパソコンPC-100を発売した。
 まだパソコンショップなどというものはなくて、地元の安川電機の関連のシステム会社がNECの販売店をしていた。
 私は、仕事帰りにあるその店にたびたび立ち寄り、発売まもなく、清水の舞台から飛び降りるような気持ちでPC-100を購入した。
 20万円のプリンタ(PR201)とあわせて総額70万円を、公務員生活で節約した虎の子のほとんどをはたいて購入した。
 洗練されたデザインは使うものを満足させた。ディスプレーを縦に回転させると、そのまま縦型で使えるようにもなっていることも画期的であった。A4縦置きのワープロ入力ができるのである。
 負けん気の強い兄が、すぐに同じ機種を購入したのもいまではたのしい思い出である。
 ワープロソフト、表計算ソフトが同梱という販売形態も、このPC100がはじめただろうと思う。この機種に搭載されたワープロソフト J-Wordがその後のワープロソフトの標準となった一太郎へとバージョンアップされたことを知る人は少ないかもしれない。
 表計算はマルチプランが搭載され、あまりの便利さに目を丸くしたものだ。

 PC−100ではじめてやったことは、家業の鉄工所のNC旋盤のパンチテープに打たれたプログラムを、パソコンに取り込んで、シミュレーションし、刃先が品物やチャックに激突することを事前に防ごうというものであった。今ではNC旋盤にグラフィックディスプレーがついていて、刃先の動きをシミュレーションしてくれるものは普及しているが、当時はNCにパソコンを連動させることはまだ画期的だったようにおもう。
 そこでぶつかったのが、PC-100の画像処理であった。他のパソコンがほとんどテキストとグラフィックを別に処理していたのが、「最新の」PC-100は現在と同じビットマップにすべて描画するタイプであった。そのため直線、曲線をBasicで描くとあまり高速でなく、すこしいらいらさせられた。
 ちょうどそのころ、仕事の休憩場所で、学生時代の知人が新日鉄関連のシステムハウスをやっていて、雑談をするなかで、PC-100付属のマクロアセンブラの利用を学習し始めた。仕事がひと段落して、10分くらいの休憩時間に、ソフトハウスのプログラマーにあつかましくもアセンブラの質問をあびせかける。その知人の会社は、本当はとてもめいわくだったかもしれないが、快く教えてくれた。私が8インチのフロッピードライブを持っていたので、それを利用してもらう協力関係もあったのだろうが、本当に感謝感激であった。
 マクロアセンブラの世界は、チップを直接駆動する感覚で、本当に自分がパソコンを動かしている気分になれるし、当然ながらBasicと比べると目が回るほど高速なのだ。
 PC-100は当時8ビットが主流の時代に16ビットCPUの 先進パソコンであるから、アセンブラもみんなが知っているZ80のニーモニックがかなり拡張されていて、かなり勉強しなければならなかった。レジスタに値をセットして、チップのポートに命令をいれる単純な作業の連続が、ひとつの画像を描き出すのである。MS-DOSが、割り込みという機能を使って、機種の差を解消するシステムを構築していることも学ぶことができた。特定の割り込み番号がMS-DOSやPC-100のために予約されていて、どの機種でコーディングしても割り込みレベルでは同じ動作をするようになっているわけである。
 CP-Mがはじめたこのやり方を、マイクロソフトのビルゲイツはきちっと商売に結びつけたことにマイクロソフトの現在の先進性があるのだろう。

 その次に興味を持ち始めたのはデータベース簡易言語とC言語であった。簡単に何百万件のデータを並び替えたり検索、抽出できたりすること、自分で命令を拡張してライブラリーとしていつでも使えるように保存できる、ということはめからうろこができるようなことだった。
 また思い切って、dBaseIIとLatticeC、CISAMというデータベース言語と、開発言語をほぼ同時に購入した。
 これで知人の店の販売管理システムを勉強で作って、喜ばれた。PC-100で開発し、PC-9801で稼動させた。当時としてはパソコンで考えられる最高速の顧客管理、販売管理であり、そののち10数年近くつかいつづけても、あまり新しいものの必要を感じさせなかったが、稼動するパソコンが終焉にちかづいたためと、市販の販売管理ソフトが安く高機能になっていったため、市販のソフトにきりかえたようだ。

 PC-100の限界が見えてきたのは記憶装置の問題からだった。内臓のフロッピーは360キロバイト、8インチドライブでも1.4メガバイト、思い切ってかった10メガバイトのハードディスクはPC-100用であるがために14万円もした。

 

1984年 PC-9801 全盛時代


お金はかからなかった。
PC-100と同時進行でPC-9801はN88-Basicの時代から、MS-DOSへと移っていっていた。
私にとっては、dBaseII、LatticeC ともに98でも動作するのである。そのため新たに開発言語を買う必要もなかった。現在のウインドウズの時代では当たり前のことが、当時はすごいことだった。


 

PC9801のすばらしいとrころは、まだCPUやグラフィックチップが非力なときに、グラフィックは専用のGDCで、テキストは専用のメモリー上で高速で表示することができたことだ。PC-100で表示すると、だらだらと表示するテキストも98ではぱっと一瞬で表示してしまう。この日本語処理能力と内部処理コードの開放こそが、先進の高性能CPUで対抗する富士通を抑えて、98が多くのシステムハウスで迎え入れられ、圧倒的なシェアーを閉めることができた理由だと思う。
5インチ1.4メガフロッピーの普及で、PC-9801M2を購入し、古い9801は職場の分会の事務マシンにした。 組合の要求書つくりや、組合員のアンケートの処理、賃金分布表のさくせいなど、大活躍してくれた。

 そのころからハードディスクも急速に値段が下がって、40メガ、60メガと次第に容量も大きくなった。

1995年 パソコンで DTP の時代へ

 パトローネという写真誌の編集を担当するようになって、印刷所の導入されたばかりのUNIXで動くリョービのDTPシステムを使うことになったが、PC9801のパソコンではテキストの入力支援が精一杯であった。そうするうちに、印刷所があのマッキントシュの導入に踏み切ったのである。
 当初は印刷所のマックでやらせてもらっていたが、これならできると1995年PowerMac 8500が発売されると同時に、製版ソフトQuarkXpress3.3を思い切って購入した。データベース処理、画像処理、DTP、どれをとっても、マイクロソフトのウインドウズがおもちゃのようにみえてしまう。本当にほれてしまった。
  写真誌も、文字はきれいになる、写真がきれいになると、いいことばかりであった。そのごマックはG4、G5を購入して現在に至っている。

 

21世紀 パソコンが道具として普及

 

       

 

 最近、パソコンのクラブなどのお世話をするようになって、ウインドウを使うことが増えてきた。できればマックだけを極めたいがそうはいかない。とにかくマックを所有している人がきわめて少ないからだ。というわけで、いまは両刀使いである。
 G5になって、アップル社は、CPUのIBM・モトローラからインテルへと転換するために、大学教育の情報処理で使われているFreeBSDを基礎としたデスクトップに転換した。そういうわけで、現在のG5は昔のメインフレームと同じくらい、いやそれ以上のパワーを手に入れている。
  QuarkXpressもバージョンは6.0になり、インターネットとの共存性や、PDFへ簡単に出力できるようになっている。マックのアプリケーションを優位にさせるものにアップル・スクリプトがあったが、最新OSでもまだ健在である。その他にもオートメーターという自動実行ツールも加わった。
 ウインドウズの能力もXPになって飛躍的によくなって、今では印刷所の製版にも使うところが増えているようである。ようやくウインドウズもプロの要求に耐えるようになったようである。
 しかし、私は、ウインドウズXPとマックOS Tigerのふたつを同時に使ってみて、価格の問題もあるかもしれないが、マックに軍配を上げたい。

 

2005年11月 記す